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​一橋大学 世界史 2024 解答・解説

このページは、一橋世界史の解答速報・過去問・解説と、傾向と対策を扱っています。

世史特徴

一橋大学世界史の特徴

基本的に、1200字出題される。

400字の大問が3問あるのが基本形。

 

字数は余る事がある。

​問題内容に関わらず、常に400字なので。

一橋大学の元学長阿部謹也の影響力が極めて大きい。

彼は中世欧州の専門家であったため、

大問一つは、必ず中世か近世からの出題となる。

時間切れとの戦い。

まずは、史料や前置き文などは、よまず、直で問題を見て、解けそうなものから解くべし。

2021世史

世界史
2021/2/26(金)

大問Ⅰ

偶像崇拝の歴史 400字 史料が難解。

大問Ⅱ

ゲーテとレムブラントの比較 史料問題 400字。

一橋史上、最大の難問だったかも。

予備校解答は割れている。

 

確かに、17世紀のオランダは寛容の時代であるが、

史料の『布地商組合の見本調査官たち』からは、寛容さは導き出せない。

​故に、ゲーテとの比較は、キリスト教的か否かが主体になると思われる。

大問Ⅲ

現代中国史。走資派の展開。400字。

​すごい簡単だった。

世界史
2020/2/26(水)

《 以下概要 》

論述:

​400字×大問3つ

地図問題:

なし

書き取り:

なし

一橋は問題内容と無関係に

毎回、400字と決まっているので、

問題によっては字数は結構余る。

大問Ⅰ

ルターと農民の相違

400字

ちなみに

一橋は必ず、大問1は中世か近世。

大問Ⅱ

英国から米国への

覇権交代

大問Ⅲ

小中華思想

《 以下解答 》

 以下、試験当日の2020年02月26日(水)23時55分に作成完了

 

 

問1

農民達は、具体的には、農奴制の廃止、領主裁判権の廃止、地代の軽減などを要求した。

問2

農民達の意見は、宗教上のものに止まらず、農奴制廃止や、領主裁判権廃止など、社会的な変革に至るところまで言及しており、対して、ルターは、要求は宗教上の変革に止めておくべき、という意見の相違があった。この相違が生じた理由は以下と考えられる。一つ目としては、ルターは、帝国追放処分を受けた際に、諸侯から厚く保護を受けたため、諸侯側の立場であったこと。二つ目としては、史料にあるように、農民達は旧約聖書を前提とするが、ルターは新約聖書を前提としていることである。

(272/400字)

 Ⅱ

主題:過程を論じなさい。

 

資本主義世界の覇権が、

イギリスからアメリカに移行した過程を。

 

二次大戦・冷戦・脱植民地化との関係に必ず言及して

 

覇権の移行を、経済・軍事・植民地への対応の三面で以下、論述する。まず、経済から。英国は一次大戦で債務国となり、二次大戦で、その対米債務は大きく拡大した。二次大戦では、ブレトンウッズ体制の成立にまで至り、米ドルは世界通貨となった。次に軍事面。両大戦において、米軍が英国を守った。その米軍は、大戦後も英国を含む西欧で駐留を維持し、冷戦期においても、西欧の共産化を防いだ。つまり、英国の対米依存は経済だけでなく、軍事にまで至っていた。最後、植民地に関して。上述の通り弱体化した英国には、植民地を維持する余力もなく、加えて脱植民地化の流れもあり、多数の地域の独立を認めた。一方、米国はその経済力・軍事力に加えて、新帝国主義を採用した。これは、形式上は対等な主権国家同士として関係を結びながらも、実際は強い影響力で、経済的な収奪を進めるものであり、広範な地域を、英国に替わって事実上、支配した。

(393/400字)

 

問1

小中華

 

問2

小中華意識とは、李氏朝鮮こそが、唯一、中華を正統に継承している、という考え。この意識が形成された背景には、明の滅亡がある。中華を継承していた漢民族の明朝が、夷狄と称されていた清に滅ぼされてしまい、李氏朝鮮の支配階層は、その明の後継者は自分達だけであると自負した。次に、この小中華意識が、1860~70年代に以下の様な役割を果たしてしまったに関して述べる。一つ目、小中華意識は、夷狄との交流をさけるべく、鎖国政策を採らせてしまい、結果として江華島事件、日朝修好条規を招いてしまった。二つ目、小中華意識は、日本を含む近代列強を夷狄としてみることから、近代化を遅らせてしまった。

(290/400字)

2020世史

世界史
2016年度

聖トマス(トマス=アクイナス)に関する次の文章を読んで、問いに答えなさい。

聖トマスは都市の完全性を二因に帰する。すなわち第一に、そこに経済上の自給自足あり、第二には精神生活の充足、すなわちよき生活、がある。しかして、およそ物の完全性は自足性に存するのであって、他力の補助を要する程度、においてその物は不完全とされるのである。さて、霊物両生活の充足はいずれも都市完全性の本質的要件であるが、なかんずく第一の経済的自足性は聖トマスにおいて殊更重要視される。生活資料のすべてについての生活自足は完全社会たる都市において得られると説かるるのみならず、都市はすべての人間社会中最後にしてもっとも完全なるものと称せられる。けだし、都市には各種の階級や組合など存し、人間生活の自給自足にあてられるをもってである。このように都市の経済性を高調することは明らかに中世ヨーロッパ社会の実状にそくするものであって、アリストテレース(アリストテレス)と行論の類似にもかかわらず、実質的には著しき差異を示す点である。聖トマスにおいてcivitasは「都市国家」ではあるが、「都市」という地理的・経済的方面に要点が存するに反し、アリストテレースは「都市国家」を主として政治組織として考察し、経済生活の問題はこれを第二次的にしか取扱っていない。

(上田辰之助『トマス・アクイナス研究』より引用。但し、一部改変)

*civitas:市民権、国家、共同体、都市等の意味を含むラテン語。

問い 文章中の下線部における聖トマスとアリストテレスの「都市国家」論の相違がなぜ生じたのか、両者が念頭においていたと思われる都市社会の歴史的実態を対比させつつ考察しなさい。(400字以内)

A

アリストテレースが政治組織として捉えた「都市国家」はポリスである。ポリスは政治単位であった。その社会は市民と奴隷で構成され、そして市民は戦士でもあった。故に市民は参政権を持ち、ポリスという運命共同体の決定権を持った。一方、聖トマスは中世都市において、政治的なものは要点でないと考えた。中世都市の社会は商工業の主体である親方、その下に職人、徒弟が存在する階層社会である。ここだけ見れば、アテネ型のポリスに似ているが、軍役を中世の商工業者が担わない所に大きな違いがある。確かに親方は市参事会において発言力を持つが、同会自体の政治決定力はポリスに比べれば極めて限定的である。概して、中世都市の自治には、神聖ローマ皇帝や国王などの戦士階級からの特許状が必要だった。そういった封建勢力に対し都市同盟が結ばれることもあったが、ポリスのように都市単体で政治決定権を持つことは無かった。(385文字)

次の文章を読んで、問いに答えなさい。

ベルリンにはたくさんの広場がありますが、その中で「最も美しい広場」称されるのは、コンツェルトハウスを中央に、ドイツ大聖堂とフランス大聖堂を左右に配した「ジャンダルメン広場」です。この2つの聖堂はともにプロテスタントの教会ですが、フランス大聖堂は、その名の通り、ベルリンに定住した約6千人のユグノーのために特別に建てられたものです。この聖堂の建設は1701年に始まり、1705年に塔を除く部分が完成しました。壮麗な塔が追加されて現在の姿になったのは1785年のことです。

歴史的事件の舞台として有名な広場もあります。例えば、「ベーベル広場」は、1933年にナチスによって「非ドイツ的」とされた書物の焚書が行われた場所で、現在はこの反省から「本を焼く者はやがて人をも焼く」というハイネの警句を記したモニュメントが設置されています。この広場に面する聖へートヴィヒ聖堂は、ポーランド系新住民のために建設されたカトリック教会です。建設は1747年に始まり、資金不足や技術的困難を乗り越えて、1773年に一応の完成にこぎつけました。実際にはカトリック教会として建設されましたが、この円形聖堂は、もともとローマのパンテオンを摸して内部に諸宗派の礼拝場所が集うように構想されたものです。この聖堂をデザインしたのは当時の国王自身であり、彼の基本思想を象徴するものと言えるでしょう。

問い 文章中の下線部で述べられている2つの聖堂が建設された理由を比較しながら、これらの聖堂建設をめぐる宗教的・政治的背景を説明しなさい。(400字以内)

A

フランス大聖堂建設の理由は、ナントの勅令廃止によって多数のカルヴァン派が新教国家プロイセンに移住してきことによる。聖ヘートヴィッヒ聖堂はポーランドのカトリック系のために建設されたもので、そもそもスラブへの教化を進めたのはプロイセンの母体となるドイツ騎士団であったし、また聖堂建立の直接の契機はプロイセンが1740年のオーストリア継承戦争でシュレジエンを獲得し、ポーランド系住民を獲得した事が推測される。フランス大聖堂はカルヴァン派で、一方、ヘートヴィッヒ聖堂はカトリックであるが、プロイセンは両者を受け入れた。その宗教的・政治的背景は、プロイセンが啓蒙思想の影響も受け、宗教的には寛容になったこと、また、強国化を進める過程で、先進技術を必要としたことが挙げられる。(332文字)

次の文章は、1950年8月に周恩来が、同年6月に勃発した朝鮮戦争への対策を述べたものである。これを読んで、問いに答えなさい。

アメリカ帝国主義は朝鮮で突破口を開け、世界大戦の東方基地にしようとしている。したがって、朝鮮は確かに現在の世界における闘争の焦点になっており、少なくとも東方における闘争の焦点である。現在、我々は朝鮮について、兄弟国の問題としてとらえたり、我が国の東北と境を接し、利害関係がある問題としてとらえたりするばかりでなく、さらに重要な国際的闘争問題としてもとらえねばならない。このような認識は我々に新たな問題をもたらしている。すなわち、朝鮮人民を支援し、台湾の解放を先送りにし、積極的に東北国境防衛軍を組織することである。

(中共中央文献研究室編『周恩来年譜1949-1976』より引用。但し、一部改変)

問い 文章中の下線部が指す1945年以降の朝鮮半島の情勢を説明した上で、朝鮮戦争が中国および台湾の政治に与えた影響を論じなさい。(400字以内)

A

日本の敗戦後、その統治下にあった朝鮮半島は38度を境に、北はソ連、南は米国に占領され、それぞれの影響の下、朝鮮民主主義人民共和国と大韓民国が建国された。1950年には北朝鮮が南進し、朝鮮戦争が開始された。冷戦が熱戦となった。敗北寸前の韓国救援のために、米軍が派遣され、次は北朝鮮軍が壊滅寸前になった。それに対し米軍の満州侵攻を恐れた中国軍は事実上参戦し反撃、1953年に休戦に至った。この戦争はまだ講和条約締結にいたっておらず、共産勢力と自由主義勢力との激突の経験は、極東に大きな緊張を維持させた。また、北京政府にとって休戦後も駐留を続ける在韓米軍は大きな脅威となった。次なる衝突に備えるべく、中国大陸でも、台湾でも独裁政権が肯定された。それが毛沢東の独裁、蔣親子の台湾の軍事独裁を支えた。(345文字)

2016世

世界史
2015年度

「聖なるクリスマスの日に、王がミサのために至福の使徒ペテロの墓前での祈りから立ち上がったとき、教皇レオは冠を彼の頭に載せた。そして、彼は全てのローマ人民により歓呼された。「至聖なるカール、神により戴冠されたる偉大にして平和を許すローマ人の皇帝に命と勝利を!」と。そして、讃歌ののち、彼は教皇から古き皇帝の慣行に従った崇拝をうけ、それ以来、彼はパトリキウスの称号をやめて、皇帝と呼ばれた。」

この文章の中で「ローマ人の皇帝」とされた「彼」(カール)は、ヨーロッパ世界にとって重要な存在とされる。彼はローマ滞在中、聖ペテロ教会でのクリスマス・ミサに出かけ、この文章によって伝えられる出来事を経験した。

カールは、この時なぜローマに滞在していたのか、また、なぜ「ローマ人の皇帝」としてローマ人民により歓呼されたのか。8世紀後半におけるキリスト教世界の情勢のなかで述べるとともに、この出来事がヨーロッパの歴史に与えた影響について説明しなさい。(400字以内)

A

カール大帝のローマ滞在の理由は、ローマ教皇レオ3世から保護を求められた事にあった。当時、ローマ教会は聖像禁止令を巡ってコンスタンティノープル教会と首位権争いを展開していたが、皇帝教皇主義の東方教会に劣勢を強いられていた。そのため、西方教会は保護者を求めており、フランク王国の提携を進めた。ピピンのクーデターを支持し、ラヴェンナの寄進も受け、その最終形が本問のカールの戴冠である。問いのローマ人民に歓呼された理由は、カール戴冠によって、形式上ではあるがカールを皇帝として西ローマ帝国は復活し、その権力の保護の下、東方教会への対抗が可能になった為である。この出来事が欧州史に与えた影響は二つある。一つ目は、上記と被るが、西欧の宗教的権威と政治権力の相互補完体制の形成が進み、東欧に対抗出来、欧州が東西に分離したこと。二つ目は、基督教文化とゲルマン文化と古典文化が融合した西欧文化が形成されたことである。(399文字)

ともに1967年に発足したヨーロッパ共同体と東南アジア諸国連合は、地域機構として大きな成功をおさめた。両機構の歴史的役割について、その共通点と相違点を説明しなさい。(400字以内)

A①(2016年作成)

共通点一点目は、関税などを廃止・縮小させて地域の経済的統合を進め、経済発展に大きく寄与したこと事。共通点二点目は、欧州と東南アジアの国際的地位上昇に貢献した事。相違点一点目は、そもそもの設立目的が大きく違うこと。ヨーロッパ共同体はシューマンプランを基礎として欧州の平和建設途上の組織であるのに対して、東南アジア諸国連合は資本主義側の体制維持装置、または軍事同盟であった。ASEANは9・30クーデター後のインドネシアを中心に形成され、インドネシア共産党の復活防止、インドシナの共産勢力の拡大防止が目的であり、1967年の大きな緊張感の中、創設された。但し、後のクアラルンプール宣言によって、その軍事同盟的性質は無くなった。相違点二点目。ECが欧州の政治的統合の通過点であったのに対し、ASEANはあくまでも主権国家間の連帯である点。 (367文字)

A②(2018年作成)

両機構における共通の歴史的役割は、地域の経済協力機構として成功し、欧州・東南アジアでそれぞれ分業体制を進め、そのヒト・モノの交流をすすめ、両地域の平和に繋がったことである。一方、その相違点としては、以下がある。一つ目、ヨーロッパ共同体は結成当初から、旧敵同士であった独仏融和を主目的としていたのに対し、東南アジア諸国連合は、事実上、反共軍事同盟として設立されたことにある。二つ目、ECは米国の影響を排除しようとしたが、ASEANは米国の世界戦略の一つとして創られたことである。三つ目、ECはEUの形成途上として存在し、欧州連邦の成立の布石となったのに対し、ASEANはあくまでも主権国家同士の安全保障体制や経済協力機構に過ぎなかった事である。

次の文章は、18世紀末における清朝の対外関係の一端を伝えるものである。これを読んで問に答えなさい。

1793年9月16日(水) 一行の韃靼滞在期間もいよいよ残り少なになったので、皇帝への暇乞の挨拶に、今朝、大使は参内した。但しこの時は前回のような正式な参内ではなかった。

この時にも、王宮内ではある種の公式要談が行われた。随行した幹部連の腹蔵のない話をまとめると、この時の会談の内容はおおよそ次のようなものである。

皇帝は、英国といわずどこといわずおよそ外国を相手に成文の条約による契約に署名する、従ってそういった契約に応ずると言うことには、のっけから絶対反対だったのである。皇帝の言い分はこうである。―およそ外国と条約関係に入るということは、この国の伝統的国是にももとり、事実支那古来の法律にも背くことになる。が、自分としては、英国国王並に英国国民に対して高い尊厳の念をもっていることは申すまでもない。事実、当方としても、できうべくんば英国に対し、現にこの国と通商関係にある他のどのヨーロッパの強国よりも一層大きい通商的便宜を与えたいのは勿論であるし、また今回の会談の眼目と思われる例の広東来港の英国船に課する課税問題ということでも、当方としてはこれに対して新しい取極めに応ずる用意もないではない。が、そのまた半面には、自分としては、自国民の真の利益を絶えず擁護すべき地位にあるのであって、これだけは絶対に犠牲にするわけにはいかないので、従って自国民の利益が少しでも犯される気配があれば、いつでも相手国の如何を問わずその修好上の便宜を撤回しなければならない。で、かりに英国が、この国と現に通商関係にある他の国以上に有利な便宜を与えられているとしても、その通商行為の如何によっては、これまたその権利を喪失すべきことにならぬとも限らない。自分はこの際、これだけのことははっきり言明しておきたい。で、これを自分が理解・実戦するには、成文の証書も署名も一切その必要が無いのである。

問 下線の皇帝の名前を記し、その皇帝によって語られた清朝の対外関係の特徴とその崩壊過程を説明しなさい。

(400字以内)

A

乾隆帝。その対外関係の特徴は中国古来の冊封体制・朝貢貿易にある。以下詳細。中華思想に基づき、皇帝が理念的に全世界を支配する。周辺地域に関しては、皇帝が直接統治せず、支配を任せる。これが冊封である。冊封を受けた王は朝貢を行う。この朝貢に対し、皇帝は返礼を行い、これが朝貢貿易となる。英国は、対等な主権国家同士の条約締結とそれに基づく通商を要請したが、一方、本問の資料において乾隆帝は、「この国の伝統的国是にもとり、事実支那古来の法律にも背く」と否定している。次に上記の冊封体制・朝貢貿易の崩壊過程を説明する。アヘン戦争により広州一港政策は崩れ、公行も廃止され、続くアロー戦争で、さらに開港場が増加し対中自由貿易は拡大した。これは朝貢貿易の崩壊と言える。また、上記戦争の南京条約・北京条約はまさしく「条約」であり、また続く清仏・日清戦争で属国であるヴェトナムと朝鮮も失い、これは冊封体制の崩壊と言える。

(399文字)

2015世

世界史
2014年度

引用文の筆者である良知は、1976年に書いたこの論文の中で、「歴史なき民」に対するエンゲルスの考え方を批判的に考察しながら、1848年のヨーロッパの諸事件においてこれらの民が担った役割の再評価を試みた。この文章を参考にして、エンゲルスが「歴史の歩み」と「歴史なき民」の関係をどのように理解しているのかを説明しなさい。それを批判的に踏まえながら、下線部の人々がどのような政治的地位にあったかについて、17世紀頃から21世紀までを視野に入れて論じなさい。(400字以内)

A

エンゲルスの「歴史の歩み」とは、封建制から自由主義、そして社会主義への移行である。エンゲルスの「歴史なき民」は、その封建支配に従属し続けた主体性無き東欧諸民族である。確かに、チェコとスロヴァキアは長く封建勢力の下、従属的地位にあった。長くオーストリアに支配されたし、一次大戦後のチェコスロバキアの独立も英仏により与えられたものであり、ミュンヘン会談でも主体性はなく、同会談直後に、封建支配の最終形態であるナチス=ドイツにより解体させられた。しかし、主体的な民族運動も存在した。17世紀にはボヘミア反乱を展開したし、19世紀にはスラブ民族会議も開催した。また、二次大戦後のチェコクーデターにより共産化に成功している。冷戦終了後はチェコとスロヴァキアは主体的な協議により分離独立し、民族国家を建設し、21世紀おいては、その意志でEU加盟を果たした。(370文字…数字2文字1マスでカウント)

2014世

世界史
2013年度

中世ドイツの東方植民の経緯を、送り出した地域の当時の社会状況をふまえて述べるとともに、植民を受け入れた地域が近代にいたるまでのヨーロッパ世界の中で果たした経済史的意義について、その地域の社会状況の変化に言及しつつ論じなさい。(400字以内)

A

送り出した地域であるエルベ以西のドイツでは中世農業革命で人口が増大し、農地が不足していた。また、東方植民の時期は十字軍期でもあり、キリスト教圏の拡大という目的もあった。上記の社会状況から、エルベ以東へ東方植民が展開された。エルベ以東は人口希薄地帯とはいえ、スラブ系が居住しており、その制圧・教化のため、ドイツ騎士団が中心となり、諸侯・騎士と農民達の間には保護・支配という封建的な社会が形成された。近世の西欧では、農奴制が衰退していくが、この植民地域に関しては封建反動に成功し、再版農奴制が展開、植民当初いた自由農民も農奴に転落した。その為、植民後から近代に至るまで、農業地域・「周辺」として、西欧への食糧補給を担当し、西欧の商工業の進展を支えた事に経済史的意義がある。(334文字)

「革命」をどのようなものと考えるとこの貴族の動きは「反乱(もしくは反抗)」とみなされ、また「革命」を逆にどのようなものと考えると同じものが革命とみなされることになるか答えなさい。絶対王政の成立による国王と貴族の関係の変化、フランス革命の際のスローガン等を参考に考察しなさい。(400字以内)

A

王権に対する貴族の挑戦を反乱と見なす背景にはマルクス史観がある。マルクス的な革命とは、新たな階級の登場によって旧来の階級が打倒される事である。マルクスはフランス革命をブルジョワ革命と考えた。ブルジョワが打倒した階級は封建勢力であり、王も貴族も同一階級と考えている。絶対王政期、貴族は国王の廷臣となり、アンシャンレジームにおける搾取階級として王と共に君臨していたし、それは「第三身分とは何か…全てである」というスローガンからも理解出来る。マチェは上記故に、「貴族の反乱」と考える。一方、「貴族革命」と表現した背景には、王と貴族を別の階級としてみなす歴史観がある。中世では貴族の勢力は強く、三部会により、その政治的発言権は保証されていた。しかし、絶対王政の進展により、三部会停止や高等法院の縮小等、貴族の権力・権利は縮小していった。三部会再開により王から奪権するという見方であれば「貴族革命」と言える。(399文字)

問1

(清朝末期における)革命派と立憲派との論争について説明しなさい。

(一問一答を含めて全体で200字以内)

A

革命派は「民族の独立・民権の伸長・民生の安定」の三民主義を主張した。具体的には、列強に妥協しがちな清朝を打倒し、漢民族を主体とした共和国の建国を目指した。人民主権論がその基礎にある。一方、立憲派は明治維新を模範とした立憲君主制による清朝の維持を主張した。確かに公羊学派ではあるが、その基礎は儒教思想であった。(155文字)

 

 

問2

以下に掲げる史料を参照して、1880~90年代に開化派のめざした改革はどのようなものであったのか、それは朝鮮の社会と政治をどのように変えたのかを、説明しなさい。なお、史料は現代語訳したものであり、一部に意訳しているところがある。(200字以内)

A

開化派は近代国家の建設を目指した。朝貢をやめ、冊封体制から離脱し、独立した主権国家として欧州型の外交関係を築こうとした。内政では両班の支配・搾取を打破し、国民が政治権力を握り、選挙による国家運営を目指した。甲申政変は失敗したものの、後に冊封から脱する大韓帝国への改称や愛国啓蒙運動に影響を与えた。(148文字)

…朝鮮の社会をどのように変えたのか…が、書けない。

開化派の改革から日本の敗戦まで、朝鮮の社会(地主支配)は変わってない…

日本敗戦後の旧地主層の没落はソ連やアメリカの影響だし…

独立協会は頻度低いし、社会(≒階級)ではないし、何よりリード文にあるし…

本問は分からない…一橋の作問意図(社会の変化)が気になる。

2013世

世界史
2012年度

1598年のナントの勅令(王令)の公布は、16世紀後半のフランスで30年間以上にわたって続いていた長い戦乱を終結させた出来事として有名である。では、この勅令(王令)に至るまでの経緯はどのようなものであったのか、またその目的は何であったのかを、当時の政治状況および宗教問題に焦点を当てながら説明しなさい。(400字以内)

 

A

当時、カトリック諸候と新教徒諸候との争いであるユグノー戦争が展開されていた。一旦、ヴァロワの王女とユグノー側の指導者アンリとの結婚によって、カトリック・カルヴァン両派の和解が図られたが、サンバルテルミの虐殺が発生し、抗争は続いた。この内乱を収拾し、国家統合を図るために、以下の事が行われた。アンリと王女の結婚を有効とし、新たなブルボン朝を創設する。ユグノー側の指導者アンリはカトリックに改宗する。アンリはナントの勅令を発する。このナントの勅令の主目的は、個人単位での宗教選択権を与える事により内乱を収拾する事にあった。ナントの勅令は新旧両教徒の妥協・和解という解釈も可能だが、王権によってカトリック以外を認めたという事で、王権の聖権に対する優位を示し絶対王政を強化する意図もあったと言えよう。(346文字)

ところで20世紀には、カイロ宣言で打ち出された目的を実現するための国際機構を作る試みが二度行われている。どのような国際機構が設立されたのか、またそれらはどのような問題に直面したのか、20世紀の国際関係を踏まえながら論じなさい。その際、次の語句を必ず用い、用いた語句に下線を引きなさい(400字以内)

総力戦   安全保障理事会   イタリア   冷戦   PKO

A

勢力均衡に替わる集団的国際安全保障機構として国際連盟と国際連合が設立された。共に、総力戦となった二度の大戦の悲惨な経験から成立した。まず、連盟が直面した問題を二つ。一つは、米国の不参加、日独の脱退等、大国が連盟の枠外にいたので、その平和維持機能に限界があった事。もう一つは、制裁手段が経済制裁しか無かった事である。イタリアのエチオピア侵攻において、連盟主導の経済制裁が発動されたが効果は薄かった。結果、人類は再び大戦を経験してしまう。その反省から設立されたのが国際連合である。最後に、連合が直面した問題を二つあげたい。連合では大国優先主義の下、安全保障理事会とその常任理事国に権限が集中されたが、冷戦において米ソが拒否権を応酬し機能不全に陥ってしまった事。連合では武力制裁が認められたが、国連の組織・財政力の問題から正式な国連直属の軍隊は存在せずPKO・PKFに止まっている事である。(392文字)

問1

ところで、ラッフルズはシンガポールにおける交易の自由がアジアの物流を一変させると考えていますが、この思想との対比において、イギリスの東南アジアにおけるその後の政治的経済的活動の展開を述べなさい(200字以内)

 

A

英国はペナン・マラッカ・シンガポール等の海峡植民地の設置により、交易ルートの整備を進め、東南アジアにおける中継貿易基地を整備した。しかし、その後の英国は帝国主義政策へと転換していく。点から面の支配へ、海から陸へ上がっていく。マレー半島で錫鉱山を開発、ゴムプランテーション等を展開する。その為、シンガポール等は単なる商品取り引きの港から、苦力貿易の拠点、金融センターに変化していった。(191文字)

 

 

問2

この時期(1820年代初頭)の、ヨーロッパ諸国に対する清朝の交易体制について説明したうえで、その後の同国の交易体制の変化について述べなさい。(200字以内)

 

A

当初、清朝と西洋諸国との貿易は制限貿易であった。中華思想の見地から、朝貢貿易に準じた形を取り、開港場は広州一港のみ、特許商人公行を必ず介さねばならず、特に茶を必要とした英国は一方的な銀の流出が続いた。しかし、アヘン・アロー戦争の清朝側の敗北により、清朝は公行廃止を強いられ、多数の港の開港も強制され、関税自主権も失い、アヘン貿易も黙認・公認されるなど英国有利の自由貿易体制に組み込まれることとなった。(200文字)

2012世

世界史
2011年度


フス戦争へと至った経緯を踏まえるとともにフス派が何に対して戦っていたかに重点を置きつつ、その結果と歴史的意義を論じなさい。(400字以内)

A
大シスマによりカトリック教会の権威が低下する中、ウィクリフに共鳴したプラハ大学神学教授フスは教会制度を批判し、聖書主義を展開、聖書のチェコ語訳を試みた。同時期、オスマンの脅威に対しカトリックは再統合に迫られ、コンスタンツ公会議が開催された。同会議にてフスが焚刑に処せられた事により、憤激したチェコ系住民によってフス戦争が発生した。上記が経緯である。フス派が戦った相手はチェコから搾取するローマ教会と、同じく搾取するドイツ人主体の神聖ローマ帝国であった。結果としてはフス戦争は鎮圧され、カトリック教会と神聖ローマ帝国の強い影響下に置かれたままとなった。歴史的意義は主に三つ。一つ目、フスとウィクリフの教会制度への批判と聖書主義は宗教改革の先駆となった。二つ目、チェック人の民族意識を高揚させた。三つ目、チェコで反カトリック主義が強まった。二つ目と三つ目は1618年のボヘミア反乱の主因となった。(396文字)

 


問1

この出来事については、カール・マルクスが『フランスにおける内乱』と題した冊子で議論している。この出来事を説明しなさい。(50字以内)

A
普仏戦争で徹底抗戦を唱える左派政権パリ=コミューンが成立したが、普軍と臨時政府に鎮圧された。(46文字)

 


問2
明治6年(1872年)に先立つ十数年間のうちに、ヨーロッパの国際関係は大きく変化した。
この変化が準備し、この世紀の末にかけて顕著になる国際関係上の趨勢(物事が移り進んでゆく様子)を視野に入れながらこの変化を説明しなさい。
ただし、下記の語句をすべて必ず使用し、その語句に下線を引きなさい。(350字以内)

教皇   ヴェルサイユ   資本   バルカン   アフリカ

 

A
1871年のドイツ統一により、強力な国民国家が登場した。普仏戦争末期、ヴェルサイユでの戴冠式は仏国民に復讐心を植えつけ、独仏対立が一次大戦まで国際関係の基軸となった。その為、ビスマルクは仏国を孤立化させ、仏国以外の列強と良好な関係を持った。それ故、アフリカ分割でも調停役を得た。そのベルリン会議で墺国はボスニア=ヘルツェゴビナを得る。この様なバルカンの墺国南下は良好な独墺関係を基礎としたが、同関係は1866年の普墺戦争のプラハ条約において普国が寛大な態度を取った事に由来する。またバグダッド鉄道の様に、1890年以降、ドイツ自身もバルカン進出に積極的になるが、これは普仏戦争の賠償金を元手とした資本が巨大化し、その製品市場と資本の輸出先を求めた為である。伊国は教皇領を占領し、教皇と対立する中、拡張政策を目指した。(349文字…数字2文字を一マスとしてカウント)


問1

オランダが17世紀アジアにおいて展開した活動について述べなさい。(200文字)

A
オランダはポルトガルからマラッカ・セイロン・モルッカを奪った。また、アンボイナ事件で英国商人を駆逐し、香辛料貿易を独占、ジャワ島にバタビアを建設し、東南アジア支配の拠点とした。東アジアにも進出し、台湾や出島等を拠点に日本・中国・朝鮮の間で中継貿易等を行った。特に対日貿易では、欧州唯一の独占権を得た。これら活動の中心は蘭東印度会社が担った。(170文字)

 

問2

鄭成功が台湾にその拠点を移した直後、漢人武将による清朝に対する大きな反乱が起こった。その反乱とは何であるかを述べたうえで、その経緯、清朝史において有した意味を論じなさい。(200字以内)

 

A
三藩の乱。経緯:順治帝の入関に貢献した旧明将呉三桂らは、藩王として大きな領土を清朝から得た。次代の康煕帝の抑圧策に対して、呉三桂ら三藩が反乱を起こし、最終的に鎮圧された。意味:諸侯の反乱を平定することによって、中国における清朝の中央集権化が達成された事。鄭氏台湾の鎮圧もあわせて、旧明臣勢力の大部分を一掃でき、女真族の中国支配を確立したこと。(172文字)

2011世

世界史
2010年度


次の文章を読んで,問いに答えなさい。

「政治的主権者は,もしキリスト教徒であれば,かれ自身の領土における教会の首長である。キリスト教徒たる主権者たちにおける,政治的権利と教会的権利との,この統合から,政治と宗教との双方における人びとの外的行為を統治するために人間にあたえられうるかぎりの,あらゆる様式の権力を,かれらの臣民たちに対してかれらがもっているということは,明白である。そして,かれらは,コモン-ウェルスとして,および教会としての,かれら自身の臣民を統治するために,かれらが最適と判断するであろうような諸法を,つくっていいのであって,国家と教会とは,同一の人びとなのである。」
(ホッブズ『リヴァイアサン』水田洋訳より)

問い 17世紀に執筆されたこの文章は,当時のヨーロッパ世界になお残っていた政治・社会状況を前提に書かれている。中世のヨーロッパ世界では,11世紀後半から13世紀初頭にかけて,皇帝(世俗権力)と教皇(教会権力)との関係が大きな政治問題として顕在化していた。皇帝権と教皇権とのあいだで展開された一連の政治闘争は,1122年の協約によって一応の結論に達したとされる。この争いが現実の政治・社会生活に対してもった意義とは,どのようなものだったのだろうか。1122年に締結された協約の意義にも言及しながら論じなさい。(400字以内)

 

A
教会刷新運動の過程において、神聖ローマ皇帝の叙任権行使が聖職売買にあたると考えた教会側が聖職叙任権闘争を仕掛けた。1122年のヴォルムス協約により皇帝と教皇の妥協が成立し、受封権を除く叙任権を教皇側が獲得に至った。同協約の意義は西欧の聖俗分離を確定した事である。本闘争過程が現実の政治に対してもった意義は、教皇権威が皇帝権力に追いつき、さらに「教皇は太陽、皇帝は月」という言葉の様に、上回ったことである。カノッサの屈辱や、教皇の十字軍指導、宗教騎士団の設置等がその例である。特に、同協約やジョンの破門等により、教皇は叙任権を獲得・拡大し、皇帝・王を弱体化させ、西欧の地方分権化は促進された。また、本闘争・協約により、社会生活における教会権威の浸透が一層進んだ。教会は洗礼、結婚、巡礼、葬式などの通過儀礼のみならず、鐘の音によって日々の時間までも管理し、人々の精神までも深く支配するようになった。(397文字)

 


問2

アメリカ合衆国以外の各国においても,この1920年前後に,女性参政権が実現した国々が多い。なぜこの時期に多くの国々で女性参政権が実現したのか,その歴史的背景を説明しなさい。その際,下記の語句を必ず使用し,その語句に下線を引きなさい。(350字以内)
クリミア戦争   総力戦   ウィルソン   ロシア革命   国民

 

A
フランス革命により国民国家が登場し、続く19世紀の革命・選挙法改正により、権利と義務を持つその国民の枠が拡大していった。クリミア戦争におけるナイチンゲール看護団の活躍に見られるように、女性の職業人も出てきたが、まだ少数であり、女性の社会進出と参政権獲得はまだ遠かった。1914年~18年の一次大戦は総力戦となり、女性は工場等で労働力として銃後を守る義務を負った。その為、大戦末期から女性に政治参加の権利が与えられ始めた。また、大戦末期のロシア革命・ドイツ革命は社会主義・社会主義的国家の建設に成功し、男女平等の参政権が認められるに至った。また革命達成による社会主義思想の拡大も、資本主義国家の参政権拡大に影響した。上記のような背景の下、アメリカもウィルソン政権下で国政レベルにおける女性参政権が認められた。(350文字)

 


問1

次の文章はある国際会議の最終コミュニケの冒頭部分である。この文章を読んで,問いに答えなさい。

アジア・アフリカ会議はビルマ,セイロン,インド,(A. )及びパキスタンの各国首相の招請のもとに召集され,(B. )年4月18日から24日まで(C. )で会合した。主催諸国のほか次の24カ国が会議に参加した。
1.アフガニスタン, 2.カンボジア,3.中華人民共和国, 4.エジプト,5.エチオピア, 6.ゴールド・コースト,
7.イラン, 8.イラク,9.日本, 10.ヨルダン,11.ラオス, 12.レバノン,13.リベリア, 14.リビア,
15.ネパール, 16.フィリピン,17.サウジアラビア, 18.スーダン,19.シリア, 20.タイ,21.トルコ, 22.ベトナム民主共和国,23.ベトナム国, 24.イエメン

アジア・アフリカ会議はアジア・アフリカ諸国に共通の利害と関心のある問題を検討し,各国国民が一層十分な経済的,文化的及び政治的協力を達成しうるための方法及び手段を討議した。

空欄(A. ),(B. ),(C. )に入る適当な語句を記しなさい。なお,Aには国名,Bには西暦年,Cには都市名が入る。次に,このコミュニケのなかで宣言された内容とはどのようなものであったかを説明しなさい。(100字以内)


A:インドネシア

B:1955

C:バンドン

植民地化を経験した国が連帯し、反植民地主義と平和共存を基調とする平和十原則が採択された。同原則には主権と領土の保全、国家間の平等、国連憲章尊重等が掲げられた。(100文字)

 


問2

この会議に中華人民共和国を代表して参加した人物は,1936年にその後の中国国民党と中国共産党との関係に大きな影響を与えた出来事のなかで重要な役割を果たした。その人物とは誰であり,その出来事とはどのようなことであったかを説明しなさい。(150字以内)

 

A
周恩来。国共内戦停止、一致抗日を掲げる1935年の八・一宣言に影響を受けた張学良は、36年に西安事件を起こし、国民党総裁の蔣介石を監禁した。周恩来は共産党を代表し蔣介石の説得に当たり、日中戦争の開始も重なり、1937年に第二次国共合作に至った。(123文字)


問3

この会議にインドを代表して参加した人物は,英国の植民地支配下にあったインドを独立に導いた民族主義的政治団体の指導者の一人であった。この人物および政治団体の名前を記し,次に,この団体の政治運動の展開過程を説明しなさい。(150字以内)

 

A
ネルー。国民会議派。当初は上位カーストを中心とした親英諮問会議として全インド国民会議は開催されたが、ベンガル分割令等を契機に、議員らは反英的な国民会議派を形成していった。会議派はガンジーを中心に、主に非暴力不服従運動を展開し、統一印度独立を目指したがムスリムと対立し印パの分離・独立に至った。(146文字)

2010世

世界史
2008年度


西ヨーロッパでは11,12世紀の経済発展により,遠隔地商業が盛んに行なわれるようになった。13世紀から17世紀初めのハンザ同盟の活動について,担い手,地域,交易品,そして衰退の理由に触れつつ,同時代の東方(レヴァント)貿易と対比して論じなさい。(400字以内)


《主題》ハンザ同盟の活動について、担い手、地域、交易品、衰退の理由
《副題》同時代の東方貿易と対比して
《時代設定》 13世紀から17世紀初め

A
ハンザ同盟はリューベックを盟主とするハンブルク、ブレーメン等の都市同盟であり、その担い手は主に北ドイツの商人であった。同同盟はロンドン・ブリュージュ・ベルゲン・ノブゴロドに四大在外商館を設け、バルト海・北海を中心に小麦・毛織物・木材・海産物等の日用品を安価大量に扱った。一方、東方貿易はイタリア商人やその都市同盟であるロンバルディア同盟によって担われ、地中海を中心にムスリム商人を相手に香辛料・絹・貴金属等の奢侈品を扱い、バルト海貿易と比較すると高価軽量な取引であった。ハンザ同盟の衰退理由は主権国家の台頭にある。ハンザ同盟は中世都市のネットワークであったのだが、主権国家の形成により、多数の都市が重商主義政策の下に置かれるようになった。デンマークの台頭やエリザベスによるロンドン在外商館閉鎖はその例である。バルト海貿易自体は衰退していないのに対し、東方貿易は商業革命によって、交易路自体が衰退した。(400文字…数字2文字1マスでカウント)


《注意》 一部予備校の解答では、商業革命によりバルト海貿易が衰退したとあるが、間違い。
仮に、バルト海貿易が衰退したとすると、その後のグーツヘルシャフトやスウェーデン・ロシアの台頭、大陸封鎖令等を説明できない。大西洋沿岸の諸都市の繁栄は、工業地域と農業地域の分業を促進させ、バルト海貿易自体はますます拡大する。

2008世

世界史
2007年度


カール大帝とその後継者ルートヴィヒ1世の死後,フランク王国は分裂の道を歩んだ。その過程で東西王国のいずれにおいてもカロリング家の血統に属さない国王が現れ,新しい独自の王国が形成された。王国は後にさらに発展し,西欧中世世界の中心となっていった。とくに東側の王国は神聖ローマ帝国の中核部を構成した。フランク王国の分裂と東側の王国の成立と発展の過程を,分裂に関わる二つの条約の締結から神聖ローマ帝国の初代皇帝となる国王の選出にいたるまでの期間について記しなさい。その際,二つの条約と以下の語句を必ず使用し,その条約名と語句に下線を引きなさい。語句を用いる順序は自由である。(400字以内)

マジャール人   ロートリンゲン   ザクセン朝   ハインリヒ1世

《主題》フランク王国の分裂と東側の王国の成立と発展の過程
《期間》分裂に関わる二つの条約の締結から神聖ローマ帝国の初代皇帝となる国王の選出にいたるまで

A
843年のヴェルダン条約によりフランク王国は三分された。中央部のフランク王国であるロタール領はアルプスにより南北に分断され統治困難な状態であった。その為、870年のメルセン条約によって、エルザス・ロートリゲンを含む山脈以北のロタール領は西フランクと東フランクに分割された。ここに、今日の独仏伊の原型が出来た。その後、各フランク王国でカロリングの血統が絶え、東フランク王国もハインリヒ1世によるザクセン朝が展開した。ザクセン朝のオットーはアジア系騎馬民族であるマジャール人の欧州侵攻をレヒフェルトの戦いで防ぎ、キリスト教世界の防衛に成功した。800年のカール戴冠等により、ローマ教会はカロリング家との関係を密にしてきたが、そのカロリング家も各フランク王国で断絶していった為、西方教会は新たな保護者を得る必要があり、そのオットーに対して962年に神聖ローマ帝国皇帝として加冠し、再びローマ帝国を復活させた。(397文字…数字2文字1マスでカウント)

 



18世紀後半のフランスは,それまでの絶対王政がゆきづまり,不安定な時代を迎えていたとされる。とりわけルイ16世(在位1774-92年)時代は多くの社会的矛盾や財政難が顕著となる時期であり,政府はそうした事態への対応を迫られていた。ルイ16世の即位からフランス革命勃発に至るまでの期間を取り上げ,その間,どういった問題が生じていたかを説明したうえで,政府はそれに対処するためにどのような改革を行おうとしたのか,そして,そうした改革はなぜ挫折したのかを述べなさい。(400字以内)

《主題》どういった問題が生じていたかを説明したうえで、政府はそれに対処するためにどのような改革を行おうとしたのか、そして、そうした改革はなぜ挫折したのか
《期間》ルイ16世の即位からフランス革命勃発に至るまでの期間
《問題文の分析》18世紀後半のフランスは、それまでの絶対王政がゆきづまり、不安定な時代を迎えていたとされる

とりわけルイ16世時代は、多くの社会的矛盾や財政難が顕著となる時期であり、アンシャン=レジーム(免税階級の存在)・アメリカ独立戦争参戦・莫大な宮廷費、政府はそうした事態への対応を迫られていた

自由主義的改革・特権身分への課税 チュルゴーネッケル・カロンヌ等の登用

ルイ16世の即位からフランス革命勃発に至るまでの期間を取り上げ、その間、どういった問題が生じていたかを説明したうえで、

アンシャン=レジームと第三身分の台頭・アメリカ独立戦争参戦・莫大な宮廷費

政府はそれに対処するためにどのような改革を行おうとしたのか
自由主義的改革・特権身分への課税
チュルゴーネッケル・カロンヌ等の登用

そして、そうした改革はなぜ挫折したのか
ルイ16世の政治的無能力、特権身分の抵抗…三部会の開催まで要求

A

アンシャン=レジームの下では、第一・二身分である僧侶・貴族は免税され、第三身分の平民に重税が課されていた。かつ経済的実力を伸張させた市民階級の政治的無権利は旧体制への不満を募らせ、自由主義的改革を望んでいた。アメリカ独立戦争への参戦は過重な財政負担となり、その革命思想の流入や『百科全書』等の出版もあった。旧体制下の莫大な宮廷費も問題であった。ルイ16世は重農主義者チュルゴーを財務総監に抜擢し自由主義的改革を、スイスの銀行家ネッケルには特権身分への課税を試みさせたが、特権階級は三部会の開催を要求する等の抵抗を展開した。『百科全書』は発禁処分となったが、サロン、カフェの流行等もあり、啓蒙思想は普及し、革命の思想的準備は進んだ。また、ネッケルは経費節減の為、宮廷費を公開した。そのネッケル罷免も一因となりバスティーユ襲撃が起き、三部会から派生した憲法制定議会は防衛され、王主導の改革は挫折した。(396…数字2文字1マスでカウント)

 

 


問1
「 A は1860年代に内陸諸省にたいする支配を失ったあとは戦闘を沿海地域に拡大してさらなる高揚を示した。杭州・寧波・蘇州・上海が占領された。… A との闘いの最後の数年,文官出身の指揮官たちは西洋製の火器や汽船に感銘を深くした。そのため A の鎮圧のあと総督となった曾国藩・李鴻章・左宗棠の下で機器局や船政局(造船所)が南部のいくつかの都市で作られた。機器は海外から購入し,技師も外国から雇った。対外関係が悪化した1870年代にもこの傾向が続いた。造船会社が組織され,10代の留学生の一団が西学を学ぶためにアメリカに到着した。華北で炭鉱が開かれ,電信が主要都市を結んだ。こうした一連の改革の動きは B と呼ばれた。…その後,中国の立て続けの外交上の失敗は B をまずいものと印象づけ,そこに費やされた貴重な時間を無駄にしたかのように思わせた。しかし,中国近代史において,この運動は中国が経験することになる長期にわたる「失敗」の最初のものにすぎなかった。この一連の出来事に積極的な観点が与えられるのは最近になってからのことである。歴史の奥深さをもってすれば,これらは一見失敗であるかのようにみえるが,実は巨大な革命に向かう必要な一歩だったとみることができる。」

(黄仁宇著,山本英史訳『中国 マクロヒストリー』に基づき,問題作成のため,文章の省略・改変を行った。)


空欄 A に当てはまる語句を記し,次に,その鎮圧に曾国藩・李鴻章・左宗棠がどのような役割を果たしたのか,具体的に述べなさい。(問題番号の記入を含め,100字以内)

 

A
太平天国。清朝正規軍である八旗は解体し、緑営は腐敗している状況下、漢人官僚であり郷紳でもある彼らは、郷土防衛の名の下に、湘軍、淮軍等の事実上の私軍である郷勇を組織し、太平天国の鎮圧に活躍した。(98文字)

 

問2
空欄 B に当てはまる語句を記し,次に,こうした一連の改革を推進した人たちのとった基本的な立場・主張がどのようなものであったか,述べなさい。(問題番号の記入を含め,100字以内)

 

A
洋務運動。政治や学問の分野は女真族の皇帝独裁体制や儒学を中心とした科挙制など従来の体制を保持し、産業・軍事等は西洋の技術を用いる「中体西用」が掲げられ、漢人官僚が中心となって推進された。(95文字)

 

問3
「対外関係が悪化した」「外交上の失敗」とあるが,1870-80年代における清朝の対外関係を,対ロシア,対フランスの場合について,具体的に述べなさい。(問題番号の記入を含め,200字以内)

 

A
対露:中央アジアでイリ事件が発生し、ロシアの拡大に対して貿易上の特権を認められるなど、清朝は一定の譲歩を強いられた。対仏:阮朝越南国に対してフランスがフエ条約で外交権を獲得すると、清朝は册封関係を理由にヴェトナムに対する宗主権を主張し、清仏戦争になった。清朝は敗北し、天津条約でフランスのヴェトナムに対する保護権を認め、册封体制が大きく動揺した。(176文字)

2007世

世界史
2006年度


フランク王オットー1世(在位936~973年)の皇帝戴冠は,中世ヨーロッパ世界に一つの転機をもたらしたといわれる。彼は,10世紀半ばのイタリア情勢に対応してアルプスを越えて南下し,962年2月にローマで皇帝としての冠を受けた。このとき地中海の周辺には,東方にビザンツ帝国が,また地中海の南岸とイベリア半島にはイスラム勢力があった。オットーの皇帝戴冠の歴史的意義を,9~10世紀の地中海世界の政治動向との関係に言及しながら論じなさい。(400字以内)

《主題》オットーの皇帝戴冠の歴史的意義を論じなさい。
《副題》9~10世紀の地中海世界の政治動向との関係に言及しながら

A

西欧の守護者となったフランク王国はメルセン条約等により分割され、続く各カロリング家の断絶に伴い、伯の自立化が進み、西欧は分権・弱体化した。その為、ノルマン人は各地のローマ教会を襲い、後ウマイヤ朝やファーティマ朝などのイスラム勢力は地中海の支配を拡大し、西欧世界は危機に陥った。また、皇帝教皇主義を採る東方教会との首位権争いからも、西方教会は新たな保護者を必要とした。その状況下でマジャール人を撃退したオットーに対し、ローマ教皇ヨハネス12世は加冠し、理念的にローマ帝国復活させる神聖ローマ帝国を成立させ、西欧世界の再統合を図った。確かに、統合といえども封建制はほぼ変わらず分権的であったし、皇帝と教皇の対立による非統合的な側面もあった。しかしながら、西方教会が東方教会への対抗手段を獲得した事や、後の十字軍のように対イスラム戦が可能となった事等、オットー戴冠の歴史的意義は西欧世界防衛にあったと言える。(400文字…数字は2文字1マス)

 

 

 

問1
次の文章を読んで,問いに答えなさい。


1996年にユネスコ世界文化遺産に指定されたケルン大聖堂は,代表的なゴシック様式の教会建築である。ライン地方に位置するケルンは,古くから交通・交易の要衝であった。大聖堂は,ローマ帝政時代からキリスト教徒たちの集う聖堂があった場所に,1248年から建立が始められた。1164年に三聖王(東方三博士)の聖遺物がもたらされたことで,ヨーロッパ中から巡礼者を集めることになったのが直接の契機だが,①その背景には,領主であったケルン大司教から12世紀初頭に自治権をかちとった市民たちがいた。建立は,内陣が1322年に完成した後も続けられたが,16世紀になると市民の関心が薄れ資金難から中断してしまった。1794年から1801年までは,フランス軍の占領下で,大聖堂はもっぱら倉庫の代わりに用いられる有様だった。しかし,②大聖堂建立への情熱は,まさにこの時期から再びよみがえった。1842年に再開された建立資金の半分はプロイセン政府が,残り半分は市民たちが負担した。1880年,ついに高さ157メートルの双塔を擁する大聖堂が完成した。南塔に据えられた「皇帝の鐘」は,フランス軍から奪った大砲を溶かして作られた。とはいえ,この「皇帝の鐘」は第一次世界大戦に際して武器鋳造のため溶かされてしまい,また大聖堂は第二次世界大戦に際して14回もの爆撃を被った。修復工事を終えた現在も,大聖堂は,深刻な酸性雨被害に加えて,周辺の高層ビル開発計画にさらされている。


下線①について,この時代の市民をめぐる一般的状況を説明しなさい。(250字以内)

 

A
商工業者は封建勢力に対抗する為、その財力で城壁を築き、傭兵を雇い、ロンバルディア同盟やハンザ同盟等の都市同盟を展開し自治権を獲得した。確かに、王・諸候・騎士等の支配から、都市は一定の自由を得ていた。都市へ逃げ込んだ農奴の時効を表した「都市の空気は自由にする」という言葉もあった。しかし、商工業者はギルドの加入が義務づけられ自由な経済活動は展開出来ず、市政はツンフト闘争まで主に商人ギルドに牛耳られ、同職ギルド内部にも親方・職人・徒弟の別がある等、封建勢力に対抗した市民の生活にも封建的な側面があった。(250字)


問2
下線②について,理由として考えられる政治的・文化的状況を説明しなさい。(150字以内)

 

A
政治的理由:ドイツ関税同盟に見られるように、プロイセンを中心にドイツ統合が進められており、国民統合の物理的象徴が必要だった。特にケルン大聖堂のゴシック様式はゴート式の意でゲルマン統合の象徴でもあった。文化的理由:ナショナリズム形成期のため、ロマン主義が流行しており、古代・中世への憧れが背景にあった。(150字)

2006世

世界史
2004年度


"宗教改革は,ルターにより神学上の議論として始められたが,その影響は広範囲に及び,近代ヨーロッパ世界の形成に大きな役割を果たした。ドイツとイギリスそれぞれにおける宗教改革の経緯を比較し,その政治的帰結について述べなさい。その際,下記の語句を必ず使用し,その語句に下線を引きなさい。(400字以内)

アウグスブルクの和議   首長法

採点基準 20点満点

キャプチャ.PNG

A

ドイツにおける宗教改革は、神学者ルターによる免罪符への意見書が発端となり、ドイツを二分するに至った。一方、英国における宗教改革は、英国王ヘンリ8世個人による離婚問題が発端となり、国王主導によって英国全体が階層制を残したままカトリックから離脱するに至った。以下、詳細を述べる。ドイツにおけるその政治的帰結は、地方分権化である。シュマルカルデン戦争を経たアウグスブルクの和議により、諸侯単位でカトリックかルター派かの選択がなされた。また、ルター派諸侯は領邦教会制を展開した為、カトリックを基盤とした神聖ローマ皇帝の権力は衰退した。一方、英国における政治的帰結は中央集権化である。上述したが、ヘンリ8世は首長法により、カトリックの影響力を排し、国王を頂点とする英国国教会を設立し、聖俗両権を得るに至った。つまり、ドイツ地方における帝権衰退とは、対照的に、英国においては宗教改革の結果、絶対王政が強化された。(400​)

2004世

世界史
2003年度


つぎの文中に述べられている19 世紀後半に試みられた「二世代の改革」とは、具体的に何を指している のか。[ ]内の空欄に入るべき適当な言葉(5 字以内)を考え、この二つの改革の相違点を説明しな さい。(200 字以内)

19 世紀の中頃から20 世紀の初めまでの二世代ほどの間に、中国の三千年来の古文化に西洋は止むこ とのない進撃を加えて、次々に拠点を占領して行った。技術の領域が征服されると、経済や、自然科学 や、芸術や、ついには宇宙(天下)に関する古い観念についてまで、次々に譲歩せざるをえなかった。 退却につぐ退却を重ねている間に、いつの間にか防御線を守りぬく希望さえ完全に放棄された。その過 程でこの二世代の改革の努力は容赦なく粉砕された。…(中略)…彼らの悲劇は、中国の進歩派の努力 が、たちまちのうちに時代おくれになっていくその変化の速さの中にあった。1890 年代に[ ]を主 張することは1910 年に共和主義者となること、あるいは1930 年に共産主義者であることを告白するよ り、大きな勇気を必要としたのである。(バラーシュ『中国文明と官僚制』、村松祐次訳に基づいて一部 文章を改めた)

 

A
立憲君主政 洋務運動と変法自強運動の違いを説明する。前者は「中体西用」を合い言葉に、中国の伝統 的な政治・思想は変えず、産業・軍事技術のみを西欧に求めた。一方、変法自強運動は技術 面の西欧化に止まらず、明治維新をモデルとして立憲君主政を目指し、中国の伝統的な君主 独裁の政治制度・それを支える儒学に変革を加えるものであった。その限界性がありながら も洋務運動は実行されたが、変法自強運動は戊戌の政変で頓挫した。 200/200

2003世

世界史
2001年度


17世紀から18世紀におけるヨーロッパは絶対主義あるいは絶対王政の時代と呼ばれる。
とりわけルイ14世が統治したフランスは典型的な絶対主義国家とされているが、このような政治体制がどの程度「絶対的」であったのかに注意しながら、その特徴を述べなさい。

 

A
2017年6月25日(日)のゆげ
絶対王政の特徴は、国王である中央政府が強力な常備軍と官僚制を有していることである。これらの装置により、ブルボン朝の直轄領はフランス全土の三分の一に及んだ。また、常備軍と官僚制を財政的に維持するため、重商主義政策が採られ、特許商人の保護も見られた。しかし、絶対王政には限界性があった。一点目は、領土的限界とそれに伴う政策的限界である。ヴェルサイユに権勢を誇ったブルボン朝といえども、フランス全土の三分の二は諸侯領であり、その強力な不輸不入権は、統一的法典の成立を妨げた。二点目は、人事面の限界である。絶対王政を支える官僚と常備軍指揮官の一定のポストは、貴族、つまり諸侯が持っていた。そのため中央政府内部の高官と高級軍人が地方勢力でもあり、国王の指導性には限界があった。三点目は絶対王政は社団国家であった事。一点目の諸侯だけでなく、ギルドや教会勢力等も中間団体として、国王の人民に対する直接統治を妨げた。(400)

2001世

世界史
1998年度

1998.PNG

A
最大の違いは17世紀にドイツの人口が激減しているのに対し、イギリスは、停滞に止まっている点である。ドイツでは、内戦に近隣諸国が介入した大規模な三十年戦争が展開され、教会権威の低下、傭兵多用等により、略奪が展開され人口が激減した。一方、イングランドおよびウェールズでは、英国革命があったものの、その損害は軽微であり、キリスト教的秩序も維持され、支配下のアイルランドから穀物を搾取する事で、人口を維持した。(200文字)

1998世
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